生活臭

デンマークに留学していた僕の徒然なる生活臭。帰国後も誰に頼まれた訳でもなく毒にも薬にもならないことを書きます。

MOTTAINAI

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某月某日

 

先日、僕がバイトの最低勤務日数を、見事3日間から1日に更新したことはまだ記憶に新しい。

 

人生で初めてコールセンターなる場所で働いてみたのだが、空気が悪いことやらなんやら、そして何より電話の持ち方をレッスンされた時には僕の心はもう決まっていた。だいたいなんなのだ電話の持ち方のレッスンって。それぐらい自由にやらせてほしい。過去に子機を頭に載せちゃった人でもいたのだろうか。肩に乗せてオウムと話すが如く話し始めた人でもいたのだろうか。それぐらい自由にやらせてほしい。自由にやらせた結果がそれらだったら本当にごめんなさい。

 

さて、定期的な収入がなければ日々の生活は苦しい。

そこで単発のチラシの折り込みのバイトを始めた。折り込まれたチラシをひたぶるに封筒に入れまくる。なんと頭を使わなくていい作業だろうか。

黙々と一人で手をあくせくと動かすような単純作業は嫌いではないのだが、その際にいつも考えてしまうことがある。そう、「耳がもったいない。」ということだ。

 

世は僕の耳を様々なサービスが奪い合う群雄割拠の時代である。youtube、radiko、Apple Music、Netflix、Amazon Prime、雨音、異性の甘いささやきエトセトラ。読書をする以外で、僕の耳に暇が許されることなどないのだ。それにも関わらずこの仕事は平気で5時間、耳にお暇を出してきやがるのだ。単純作業の際に音楽やラジオが聴けたらどんなに仕事が捗るか。本当に耳がもったいない。

 

世はコンテンツ時代であり、世間のサービスは人の時間を奪い合っているなんて言われているが、もっとミクロで見れないのかしらんと思う。ラジオや音楽、雨音が奪い合っているのは耳の時間、動画コンテンツや読書が奪い合っているのは目の時間、ご飯が奪ってるのは味覚の時間。そう考えてみると、我が身体の中にはまだ未開拓な部分がたくさんあるのではないだろうか。

 

星新一の作品の中に、僕が大好きな「宣伝の時代」と言う作品がある。個人が自分の「あらゆる反応」を広告媒体として売る世界が描かれている。くしゃみをしたら風邪薬の商品の名前を口ずさむ、あくびをしたら栄養剤の商品の名前を口ずさむ、ような世界。体の一部だけでなく、反応すらも資本として使える時代がきたら。星新一は、そんな世界を描いた。しかしこのショートショートは以下のような文で締めくくられる。

 

「朝からさまざまな商品名を聞かされたが、すぐ忘れてしまってなんにも記憶に残っていない。人間のひめている可能性ははかりしれないが、人間のひめている適応力のほうがもっと大きいようだ。」

 

僕がいくら耳もったいねーなとか考えてみても、人間の受容キャパは限られてるんじゃないだろうか。どうなんでしょうか。

 

そんなことをぐるぐる懸命に考えながら、僕は今日も封筒にチラシを入れる。なんと頭を使う作業だろうか。

 

 

www.youtube.com

 

 星新一 宣伝の時代